妹尾」今昔ものがたり

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◆<妹尾のルーツ>干拓前の昔は漁村
かつては備中国都宇郡妹尾村でした。その地名は寿永年間(1180年代)に用水を引いた妹尾兼康に由来しています。宇喜多氏の支配を経て、慶長5年(1600)庭瀬藩領、寛文9年(1669)から旗本戸川氏領となり、明治を迎えています。住民は漁業で生計を立て、古くから漁業集落が形成されていました。現在の妹尾駅から南あたりは児島湾の北端に位置し遠浅の干潟が広がっていました。文政6年(1823)興除新田が干拓されるまでは魚貝類の干潟漁が中心でした。
妹尾駅から南は海で妹尾は漁村だった。いま東畦地区はマンション群と住宅団地に変貌した。


◆<妹尾のルーツ>妹尾太郎兼康
妹尾の地名は、妹尾太郎兼康に由来したものと言われています。妹尾太郎兼康(1126〜1183)は、備中妹尾の豪族で平清盛の信頼を受け平家の侍大将として数多くの武功をたて、天下に聞えた武将でしたが、農業にも深く意をそそぎ、高梁川の湛井から水を引き、今も使われている十二カ郷用水路を改修した人です。用水流域68か村(現・3市2村)の人々は殆んど干ばつを知らず、その恩恵を享受してきました。




どっしりとした日蓮宗の大寺院・盛隆寺本堂
◆<妹尾のルーツ>妹尾千軒皆法華
妹尾地区は日蓮宗の盛んなところから「妹尾千軒皆法華」といわれています。町の中心部には、俗に大寺と呼ばれる日蓮宗の大寺院・盛隆寺(じょうりゅうじ)があります。「妹尾千軒皆法華」の由来は、この寺の開祖が始まりです。
庭瀬の領主・戸川達安(みちやす)公の妹君が、備前宇喜多忠家の嫡男左京亮詮家に嫁がれたが、不幸にして若くして亡くなったのです。母堂の妙承尼(常山城主友林院殿の室)は大変嘆き、悲しまれ、新しくお寺を建てて姫君(真了院殿妙円大姉、慶長8年10月1日逝去)の冥福を祈ってやろうと思い立たれたのです。
達安公もまた、妹君の死を哀れむとともに、ご母堂の心のうちを察して、その願望を叶えてあげようと思い立ち、たまたま妹尾に真言宗の寺があったので、それを達安公が信仰している日蓮宗に改宗させ、三千余坪の土地を寄付して当山を開創し、日蓮宗の僧日鳳上人を開祖に迎えて1605年4月、啓運山盛隆寺と名付けたのです。
昔この地方は、ほとんどが真言宗でしたが、戸川公の勢威と開祖の徳化によって寺も檀家も改宗させて、妹尾の村民全員が日蓮宗信者になったことから「妹尾千軒皆法華」といわれる基礎を築いたのです。真言宗などから日蓮宗へ改宗した者は、その年の年貢を納めなくなくてもよいとされ「未進法華」ともいわれました。
 
           啓運山盛隆寺の山門                妹尾千軒皆法華の石碑



◆<妹尾の人物>多士済々の有名人
音楽界では、作曲家・ピアニストの高木東六がいます。生まれは米子市ですが、本籍は妹尾町です。NHKの「あなたのメロディ」やTBSの「家族そろって歌合戦」で長きにわたり審査員をつとめ、ユーモアと辛口を織り交ぜたコメントでお茶の間の人気を集めました。
昭和23年の「水色のワルツ」は大ヒットしました。2006年8月25日、埼玉県の病院で死去。享年102歳。
 
スポーツ界では、阪神タイガースの元プロ野球選手浅越桂一がいます。関西高校から大阪タイガースに入団し背番号3。2年連続で70試合前後出場し、1961年には代打サヨナラホームランを放つなど代打として活躍しました。現役引退後は、阪神タイガースの用具係などをつとめました。
 
芸能界には、お笑い芸人のレッツゴー長作がいます。妹尾中学校卒業後、1964年に松竹新喜劇の二代目渋谷天外に入門し2年間天外自宅に住み込みで芝居の修行。道頓堀中座で初舞台を踏み、1969年にレツゴー三匹に加入。その後、真山一郎の門下で歌謡曲を学んでいます。ボヤキ漫談のほかに演歌、歌謡歌手としても活躍。天外の弟子ということもあり、松竹新喜劇にも定期的に出演しています。
 
政界には、参議院副議長をつとめた元日本社会党の秋山長造がいます。東京大学法学部を卒業し朝日新聞記者を経て、日本社会党の結成に参加。1953年の参院選に岡山県地方区から左派社会党公認で当選し、社会党再統一後は党参議院政策審議副会長・参議院国会対策副委員長、1978年飛鳥田一雄委員長の下で党参議院議員会長を歴任しています。2010年6月2日、岡山市内の病院で死去。享年93歳。


 
◆<妹尾の町並み>旧金毘羅往来の面影
町の中を東西に貫く道は旧金毘羅往来の面影を残しています。鍵曲がり(かいまがり)も残っていて、横道に逸れると、戸川氏の開いた陣屋町らしく当時の細い道がそのままつづいています。伝統的な民家は多くは残っていませんが、切り妻造り平入り、中2階建てナマコ壁、本瓦葺き、桟瓦葺き、格子戸など商家の建物が懐古的な町並みを形成しています。
 
金毘羅往来とは、香川県琴平の金毘羅宮に参詣する街道のことです。江戸時代には、船乗りや漁民だけでなく、商工業者から農民に至るまで海上守護・災害除去の神として崇拝されていました。金毘羅往来は、岡山城下から大供、野田、米倉、妹尾、早島、茶屋町、藤戸を経て、下津井までつづいていました。
 
この金毘羅往来は、箕島にも通っていました。赤松や呑海寺で若干それていますが、簑島小学校の前の道路(県道倉敷・妹尾線)が金毘羅往来でした。県道倉敷・妹尾線は、昔は「土手」と呼ばれていました。豊臣秀吉の五大老の一人である宇喜多秀家が、早島・帯江を干拓するために築かせた潮止め堤防「宇喜多土手」につづく道でした。


JR妹尾駅近くに「合資会社浅越機械製作所」の本社社屋が現存している。会社設立が昭和14年だから約70年の歳月を経ている。(写真上)

町中に「小郷写真館」の看板が目に入った。文字は旧書体で右から左へ横書きになっている。建物は老朽化しているが、看板はしっかりしている。(写真下)



◆<箕島の由来>三つの島
箕島は、かつて「三島村」と表記されていました。「三島村」の「三島」とは、三つの島から名付けられました。「丸島」「小山」「亀島」が三つの島です。
江戸時代の新田開発までは、早島丘陵は「吉備の穴海」に浮かぶ島でした。妹尾と同じように箕島の人も漁労で生計を立てていました。

 


◆<汗入水道>興除新田の用水を確保
汗入(あせり)水道は、興除新田の用水を確保するために、新たに掘られた水路です。1821年に工事が始められ、3年間の期日を要し、1824年に完成しました。汗入の岩盤は固く、難工事でした。当時は、岩を加熱して崩しつつ掘るという工法だったようですが、勾配が不十分で計画通り水が通らず「栗坂の次郎狐にだまされて、汗入掘っても水はコンコン」と皮肉られる有様でした。
 
汗入水道はその後、明治時代になって、興除新田の南に藤田村の干拓が始まったため、用水のさらなる確保が必要となり、汗入水道の掘り直し工事が行われました。現在は「汗入(あせり)」と表示された信号機とバス停が名残りをとどめています。


   
   
興除新田の用水を確保した汗入(あせり)水道



◆<国境争い>興除村を備前藩に
早島丘陵の南の海は干潟で新田開発に都合がよく、妹尾は漁民の漁場、早島・箕島はい草栽培の肥料(葦草)確保の場としても重要な場所でした。その干潟をめぐって、備中国(箕島側)、備前国(備前藩・岡山藩)が、自分の領地であると主張し、解決に約100年を要する大問題になったのです。

結局この干潟は、幕府直轄で開発をすべき土地とされ、幕府は、備前藩に興除の新田開発をするように命じ、興除を備前藩に編入するかわりに替え地を求めて決着したそうです。
妹尾の町並みを散策すると古い建物に出合う。